(日本生物地理学会会長)
立教大学,第19代高校生平和大使
専修大学教授大西 広
慶應義塾大学教授春日井 治
日本生物地理学会,船橋市
養老昆虫館館長,東京大学名誉教授
日本生物地理学会は,昭和 3 年(1928 年)に鳥類学者の蜂須賀正氏博士と
東京大学理学部教授で生物地理学の第一人者であった渡瀬庄三郎教授によって,
山階芳麿博士,黒田長 禮博士ら当時の著名な鳥類学者の協力のもとに設立された。
蜂須賀正氏博士は,平成 15 年(2003 年)に行われた生誕百年記念シンポジウムにおいて“型破りの人”との評がなされたが,
自己の信念と哲学に基づいて時代を駆け抜けた人であった。渡瀬庄三郎は,区系生物地理学における旧北区と東洋区の境界を示す“渡瀬線”
によって著名であり,特定外来生物として最近問題になるジャワマングースを移入したが,
当時困っていた野鼠やハブの被害を防ぐために生物学の知識を社会に役立てようと積極的に行動した強いパワーの持ち主であった。
日本生物地理学会創設者のこのような人となりを考え,学問を専門家の枠に留まることなく,人類社会に活かすことができればと思う。
生物学に関する研究発表やシンポジウムの他に,この一般公開市民シンポジウムをもつのはこのような理由による。
私自身は,チョウ,特に東洋区からウォーラシアを挟んでオーストラリア区に生息する多様な色彩と模様を持つカザリシロチョウ
(Delias 属)を材料として最初は分類学的研究, それから形態形質を用いた系統学的研究,
そして最近では分子データを用いた系統学研究 を行ってきた。昨年 2017 年には,
英国のリンネ学会の雑誌にカザリシロチョウの中のベニモンシロチョウグループの,
分子データ解析によって見出されたウォーラシアへの去来に関する生物地理の論文が掲載された。
分類学にしても系統学にしても扱う単位が“種”であり,種とは何かと言うテーマは深い思考が必要であり哲学的な趣も感じて,
私にとってはとても興味深く強い関心を持っていた。
今回の主題である“種問題”に関わる論争は,日本生物地理学会の副会長であり,
系統学の教科書である『生物系統学』を著した三中信宏氏がオーナーである ML『evolve』上で 2000 年頃を中心に,
その前後 10 年くらいは続き決着はつかなかったと思う。
種の定義つまり生物の種概念は主なものだけでも 20 以上ある。どの定義を用いるかよってその種に含まれる個体が加わったり減ったり,
入れ替わる。この事実を念頭におくと, 種とは採用する種概念によって個体が変動する人為的なグルーピングの一つということになる。
個体の任意の集合であるものが自然界における実体であるはずはない。
論理的でありまたとても分かり易い,この様な主張が強かったように思う。逆に言えば,
この地球に存在する生物は個々の個体のみが唯一無二の実体であり,種を含むその他の様々なまとまり(分類単位)は,
自然を理解する上で,あるいは利用する上で人間にとって都合がよいために仮想される机上の観念にすぎないとの主張であった。
しかし,犬と猫は明らかに別の生物である。それは誰にも直感的にわかる。牛と馬も別の生物である。
生物の種が机上の観念のはずはない。論理的にはうまく説明できないけれども,種は明らかに実体だという主張もまた根強くあった。
特に自然界に生息する実際の生物(実体)を種によって分け体系化する分類学者は生物の種が便宜的な,実体のない,
かりそめのグルーピングであるという主張に同意することは難しかった。このようにして長い論争が続いたが,
決着がつかないままにいつの間にか消えてしまった。
『evolve』上での議論とは別に,生物学の上で“種”こそが唯一の実体であり,
種を形成する個々の個体は分離独立した構成員(メンバー)ではなく,種の一部分(パーツ)であるという考え方が,
20 世紀に入って出現した。そして個々の個体こそが実体であり種は単なるグルーピングであるという考え方と,
種こそが実体であり個々の個体は種の部分であるという,この両方の考え方はどちらが正しいか論争が続き,今もって未解決である。
拙論『種問題とパラダイムシフト』では,個々の個体も,種も,その両方がともに実体であり,
ともに分離独立し自立した個体(個物)であることの論証を試みた。種とは何かという問いは,
ある意味では生命とは何かという問いと同じと考えられる。この問いが非常に難問であって今なお答えが見つからないのは,
一般的な人間の論理を超えた対極にある両論のどちらかではなく,その両方であるゆえである。あえて分かり易くいえば,
個体は言わば,我々が日々暮らしていると認知するこの3次元空間では分離独立した実体である。
しかし実際には我々人類も含めあらゆる生物が有する生命は未来につながっていることは疑いがない。それぞれの個体は,
未来に向かってつながった4次元以上の空間に存在するものつまり種の,“端末”である。人類が目先の認知にとどまることなく,
実際に生活する空間の容態を真に理解するためのモデルとして,人類を含む生物の種は最も適した材料の一つであろう。
理性的な実体である“種”において個々の個体は独立しているもののつながっているために構成員ではなく端末である。
つながっていはいるが,それぞれが独立して種を表す機能,つまり未来を生み出す機能を持っているがゆえにいわゆる部分ではなく,
個体それ自体が種であると言い得るだろう。
私は現代の人類に押し寄せる潮流について拙論の第 2 章以下で述べたが,人類が自然における生物のあり様を理解すること,
人類はこの壁を破る必要があるし,それができなければ人類の今後の画期的な新しい展開は難しいと考える。
視点を変えると,端末の分離独立し自立した個々の個体,それだけがこの地球上の唯一無二の実体である。
この考えがあればこそ,その個々の個体が生命を未来につなぐゆえに“種”が実体であることが理解される。
個々の個体は他種には生命をつながない。種とは生命のまとまりであり,それ以外の種の定義は種の一部分の意味を表すか,
もしくは人間の便宜上の,人為的な部分を持つと考えられる。個体と種は相補的であるが同一のものであって,
それが生命それ自体の姿であると考えられる。これは自然界における実体についての話であるが,
哲学がその理解の促進を助けてくれる。そして、個体と種が同一であることがおぼろげながらも広く万人に理解されることによって,
現人類は成長の階段を一段昇ると考えられる。